豊前のおやま、求菩提山を歩いてきました。
求菩提山(国指定史跡)は、福岡県豊前市のほぼ南に位置する、標高782mの円錐形の山です。
かつて「一山五百坊」と形容された山は、豊前修験道のメッカとして英彦山とともに大きな役割を果たしました。
山内には修行の場や山伏たちが生活をした坊跡、堂宇、墓など当時を偲ぶことが出来る多くの遺構が遺されています。
*豊前市公式ホームページより
平安時代の中ごろは、伝染病が流行ったり、災害が起きたりで、社会の不安が大きくなっていったんだって。
お釈迦様が死んでから1000年たつと、その教えがおとろえて、世の中がわるくなるっていう話しもひろがっていったらしくて・・・パニックだよね。
現代に生きていたって、こわいもんね。
病院や薬があって、機材がつかえることによって災害からの復旧がはやくなったりしてるけど、どうにもならないもののひとつ。
このあいだの地震だって、ほんとうに怖かった。
そんなこんなで、人々に安心を与える宗教が、平安時代の半ばから受け入れられ、広まっていったんだって。求菩提山は5~6世紀から信仰の山で、平安時代には山伏さんたちがこもる修験の山になったそうな。
現代の日本では、宗教がタブー視されちゃってるけど、
もともとは「心を落ち着けるもの」だったんだと思うのね。
大丈夫だよ、って自分に言い聞かせるためのもの。
そして、山岳信仰は「自分たちを生かしてくれるもの、つまり自然への畏敬の念」から生まれたんだと思う。
「宗教=うさんくさい」
みたいな世の中になっちゃってるけど、
もちろんそれを利用したワルイヤツもいるのかもだけど、
(そーゆーことばっかりニュースになるからね)
シキタリみたいなものばかりしか伝わってないかもだけど、
本質を知れば、見方はかわるのかもしれないね。
わたしは特定の宗教を信仰してはいないけれど、
日々生きていく中で出会うものや、目にするもに対して、
ごく自然に手を合わせてしまうことがあります。
神社で、山頂で、今日の無事に感謝する気持ちは、
心の奥から勝手にわき上がってくるもの。
みんなにも、きっとあると思うのね。
それって、なんでだろうね。
頭では分からなくても、
心や体ではわかってること、
受け継いでいる思い、
あるんだろうなーって感じます。
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宗教が担っていたもの、現代の日本では何が肩代わりしているんでしょうね。
「社会的な空気の悪さ」を感じている人が多くいると思います。
「癒し」ということばで一時的な安息を得る方法もあるでしょうが、
本質に目を向ける時期が来ているのかも知れません。
自分自身の声を聞く時間を。
頭に支配されない時間を。
今日からはじめてみませんか?
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