もともとつけっぱなしにすることは無かったけど、そこそこ見ていたテレビ。
東北の震災があってから、見なくなりました。
その時ほしい情報を得ることが出来ず、
3日後にはお涙頂戴なドラマ仕立ての番組ばかり。
悲しいやら腹立たしいやら、とても残念な気持ちになったことを覚えています。
こんな非常事態。
各チャンネルで似たような「その時何がおこったか!」的な番組を放送しないで、
役割分担をして情報を伝えてくれないだろうか。
どこにどんな寄付や支援が必要なのか。
どこにいけば、必要な支援を受けられるのか。
そんなことが分かればいいのに。
何度も衝撃的な映像を流さず、心が安まる映像を流してくれないだろうか。
子どものためにも、アニメがあったっていいんじゃないか。
悲惨な事態に目を向けることも必要だけれど、
被災していない者にとって、いままで通りの日常をおくることも大事なんじゃないか。
痛みを分け合う?
被災していないものが娯楽を得ないことで、誰かの気持ちが休まるの?
という思いがありました。
が、やっぱりそんなときでも「自局がいかに多くの人に見てもらえるか」というスタンスだったテレビ。
CM自粛で「ぽぽぽぽーん」ばかりが流れて。
スポンサーがどうのこうのってなくっても、こうなんだなって。
それでも習慣でテレビでニュースをチェックしていたのですが、
どんどん苦しくなっていきました。
そして、ようやく気付きました。
テレビをつけることをやめればいいって。
私たちは、えらぶことが出来る。
テレビからの情報が必要で無いと判断すれば、見なければいい。
受け取る受け取らないのスイッチON/OFFは、自分で制御すればいい。
世界の悲惨なニュースも、
芸能人のおめでたやスキャンダル、
お買い得情報も、
明日の天気すらも。
テレビにかかわらず、全てのことは自分で決められる。
誰かのありがたいコトバだって、
目の前の大切な人の不機嫌だって、
受け取りたくないならOFFにして、スーっと流しちゃえばいいし。
道ばたにさく小さな花の可憐さが必要なら、
足を止めてしゃがんで、
心スイッチ全開にして見つめたらいい。
感じたらいい。
周りの人の目なんて気にしないでいい。
いる、いらない。
ほしい、ほしくない。
その判断のひとつひとつが、自分を作っていく。
それは、嫌なことに耳をふさいで、
自分にとって嫌なことから逃げることとは別のこと。
仮にそうだったとしても、
その嫌なことから本当に逃げるコトなんてできなくて、
ただ後回しになるだけ。
それがもしかしたら、タイミングってやつなのかもしれないけれど。
情報が豊かで、あたまでっかちになりがちな今の私たち。
その情報、ほんとうに必要ですか?
心や体と、あたまのバランスとれてますか?
たまには、とめどなく流れ込んでくる情報のスイッチ、切ってみませんか?
ついつい手に取ってしまうスマホ。
だらだら見てしまうFacebook。
そのうち5分でいいから、自分にむけませんか?
それでも周りの情報にばかり目がいってしまうなら、
それを見てどう感じたか。
自分にとって必要な情報だったかどうかを感じる。
そんな小さなコトからでいいから、
はじめてみませんか。
あなたを作るのは、あなたであって。
周りの見る目でもないし、
自分で勝手に決めている自分の立ち位置でもない。
(お母さんは、こうあるべきとか、妻として、こうするべきとか)
鏡に映した自分で判断しないで、
心で感じる自分。
外界とのスイッチをOFFして、
自分を見つめるスイッチをON。
何がしたい?
どう感じた?
内側に意識が向くと、
いろんな言い訳や、しがらみを掻き分けて、
本当の気持ちが、本当の自分が見えてくる。
そう思います。
本当の自分が見えてきたら、
次の一歩は、今までと別のルートに向かっているかも・・・